恒星の向こう側

第38回東京国際映画祭 コンペティション部門:映画『恒星の向こう側』 舞台挨拶・質疑応答

第38回東京国際映画祭のコンペティション部門にて上映された映画『恒星の向こう側』(Echoes of Motherhood)のワールド・プレミア上映後、中川龍太郎監督、俳優の朝倉あき、久保史緒里が登壇し、舞台挨拶とQ&Aセッションが行われた。監督は、本作が上映としては3回目であるものの、「世界で初めて世の中に出す時に皆さんと見れたことがとても嬉しい」と語った。

「記憶の暴力性」と「野生の凶暴さ」を描く 中川龍太郎監督、新作が提示する生と死の構造

■ 映画『恒星の向こう側』 舞台挨拶・質疑応答レポート

1. 監督が語る「三部作」と創作の源泉

MCから、本作が『走れ、絶望に追いつかれない速さで』(2015年)、『四月の永い夢』(2017年)に続く「三部作の集大成」として位置づけられている点について質問が及ぶと、中川監督は、「三部作と自分で言ったことはないが、プロデューサーが勝手に言ってそうなっている」と前置きした上で、精神的な繋がりがあることを認めた。

特に本作は、福地桃子が演じる「未知」や寛一郎が演じる「登志蔵」といった登場人物の視点が、監督自身の人生を色濃く反映している。監督は、本作が自身のこれまでの人生の「一つの集大成で新しい始まり」という気持ちで作られたことを明かし、朝倉さんや久保さん以外のキャストのほとんどが、これまでの自身の作品に出てきてくれた大切な人たちばかりであると語った。

2. キャスティングに込めた意図と役の対比構造

監督は、朝倉さんと久保さんのキャスティングは最初から決めていたと説明した。

朝倉あきは、彼女の声がマリという役のモデルとなった実在の女性(中尾幸世が晩年を演じた方)の声と似ていたことが決め手の一つとなった。また、朝倉がこれまでの監督の作品の多くに出演しており、「監督として生きていける道の重要な作品でいつも出てもらっていた」ため、マリ役は絶対に朝倉さんにやっていただきたかったという。

一方、久保史緒里は、5、6年前に『静かな雨』を上映した際に、主演の衛藤美彩から紹介された縁があった。監督は、久保の演じる「ゆい」の役について、「未知と可那子という存在がいる中で、これは普通になるべくフラットに生きていた人が実人生の暴力に触れる」というテーマを描くために必要だったと説明。暴力性を持つ存在として朝倉演じるマリと久保演じるゆいが必要であり、両者が未知との「対比構造」として機能していると述べた。

久保は、監督の作品を以前から拝見しており、「繊細な描写を見て、私も中川監督とご一緒したいとずっと思っていた」ため、オファーを聞いた時は素直に嬉しかったと心境を語った。

3. 川瀬直美氏への演出と二つの演出法

観客から、母親役の河瀨直美に対して、中川監督がどのような演出アプローチを行ったのかという質問が投げかけられた。

中川監督は、河瀨監督の現場では「現場が乗っ取られちゃうんじゃないかって時があった」と笑いを誘いつつ、自身が河瀨監督のもとで学んだ演出を発展させた方法を用いたと明かした。具体的には、河瀨と未知(福地桃子)、登志蔵(寛一郎)が「現場で言葉を交わさなかったり、用意した後カットを言わずにその状況がまずできてから後からカメラを入れる」という手法を取った。

河瀨のキャスティングは、未知を演じる福地と河瀨の「おでこが似ている」と感じたことにも起因している。本作が、全く似ていない母と娘がある瞬間に「似てる」と感じる物語であるため、その点に気を使って撮影したという。

また、作中の暴力性を描くため、未知、可那子、ゆいのシーンの撮り方と、過去を描くマリのシーンでは「二つの演出法を混ぜて撮った」。マリの過去のシーンでは「カメラを据え置いて、あの静かな撮り方」をし、その静かさの中に激しいものが映る人々を配したという。

4. 撮影地・野付半島が持つ世界観

北海道からの来場者から、撮影地の一つである野付半島を選んだ決め手について質問があった。

監督は、この物語で「仕組みがもうすでに来ている世界と仕組みが手つかずの世界」という二つの世界を描きたかったと説明。奈良を日本の弥生文化的な意味での「一番古い場所」とし、野付半島を「大和的な意味での日本からすごく遠い場所」と位置づけた。朝倉演じるマリは両世界を行き来し、未知がようやくそこにたどり着く物語であるため、野付半島がその世界観を表現するのに最も適切だと考えた。

野付半島での撮影について朝倉は「死にそうになりました」と冗談を交えつつ、「厳しさの中にある優しさ、美しさっていうのはこういうことかっていうのをまざまざと感じました」と過酷さと美しさを振り返った。

5. 創作の難所と冒頭シーンの苦労

創作全体における難所について問われた監督は、自身の経験から描かれた登志蔵役については、これまでよりも距離を取って描いたとし、脚本についても寛一郎と福地桃子と3人で話し合いながらセリフを変えていったため、「自分一人の創作物というよりは3人で作った」感覚があると述べた。

最も時間がかかり、大変だったのは、久保史緒里が出演した冒頭のゆいの場面だった。作品の構造上、その場面が持つ機能が分かりづらいとスタッフからも指摘されることが多く、しかもそれが撮影の初日だったという。撮影は、実際に施設にいる子供たちと共に行われた。

久保は、撮影前に子供たちと鬼ごっこをする日を設けてもらったため、撮影当日は子供たちが「ゆいちゃん一緒に遊ぼう」と手を引いてくれ、カメラが回っているかに関わらず「あの場にこういる人として存在できた」と語った。

6. 俳優からの質問:演出方法の基準と信頼関係

Q&Aセッションの終盤では、登壇者同士の質問交換が行われた。

久保は、自身の冒頭シーンでの激しさと、朝倉のマリのシーンの静かな撮り方の違いについて質問した。監督は、明確な基準として、主人公の未知や登志蔵といった中心人物に感情が「向かうもの」に関しては「用意スタート」とカットを切っているが、感情が論理なく思わぬところで出てくるような、現実に存在する世界を描くシーン(北海道のシーンなど)ではスタートとカットをかけていないと説明した。

朝倉は、過去にも出演した俳優が多い中で作品作りをするにあたり、今までと違う感覚があったかを問うた。監督は、演技や演出には深い信頼関係が必要であり、朝倉をはじめとする信頼関係がすでに築かれた仲間と撮る時間は、人間同士のやり取りにおいて非常にやりやすかったと答えた。

7. 監督が語る「記憶の暴力性」

中川監督の作品に通底するテーマ、特にノスタルジーのような感覚について、その表現の源泉は個人的なものか、対話の中から生まれるものかという質問が寄せられた。

監督は、「記憶というのは僕は暴力的なものだと思っていて」、それは突然人生に入り込んできてしまうものだと語った。そして、人間が生きること自体も「本来的に暴力的な面を持っている」という認識を示した。

監督が素晴らしいと感じる俳優には、表面上は静かに見えても「野生の凶暴さ」があるとし、その激しさは人間が生きる上で重要であると述べた。映画は演劇やテープレコーダーといったギミックを使っているが、本質は「人間が生きていること、そして死んでいってしまうということ」であり、今生きている人間自体が「懐かしい存在」である。そして、作品は監督個人のものではなく、信頼できる俳優たちとの対話や経験と混ざり合うことで生まれるものだと強調した。

最後に監督は、マリの晩年を演じた中尾幸世が、佐々木昭一郎監督の『四季〜ユートピアノ〜』以来、40年ぶりにカメラに映ってくれたという、映画史的な意義の深さを紹介した。

8. 今後演じてみたい役

今後の抱負として、演じてみたい役について質問が及ぶと、朝倉あきと久保史緒里の二人は声を揃えて「悪い人を演じてみたい」と回答し、会場を沸かせた。

この記事を書いた人 Wrote this article

Hajime Minamoto

TOP